読書復活

昨年は、コロナのせいもありさっぱり読書ができなかった。
なにせ年初に読み始めた吉村昭の「脱出」を1年かけても読み終わらなかったほどだ。
実際は、コロナのせいなんかではなく、単に気が滅入って活字に向かえなかった…というのが正しい。

IMG_5836.jpgこの本の山は昨年からある。
そして今年、月に2冊のペースでこの山が低くなっている。
本当は年初に "月3冊" という目標(希望)を持っていたので、それよりはだいぶ少ないけど、通勤電車に乗っている時間が片道15分の割には、まあまあ読んでいるのかな…とも思う。
それどころか、昨年の実績 "年半冊" に比べたら雲泥の差だし、本に夢中になり、電車で地元駅を乗り過ごす回数も昨年と比べたら雲泥の差である。

忘れていた "本を読むと何処かに行きたくなる感覚" も思い出した。
今は、西日本へ行ってみたい。
"本を読むとそれを題材にしたドラマや映画を観たくなる感覚" も思い出した。
今は、昔の映画や大河ドラマを観直している。

ちなみに、今読んでいる本では、戦前と戦後における映画人の身の振る舞いが書いてある。
映画会社で働く多くの人々は、戦前は国からの指示で戦意高揚映画を作り、戦後はGHQの指示で民主主義啓蒙映画をなんの躊躇いもなく撮っている。
これでは、食べるために、ただ大樹に寄り添って生きているだけである。
また、召集令状が来て戦地に駆り出された監督もいれば、体が丈夫なのに召集されなかった人もいる。
どうも、何かしら軍部と繋がりのある人が難を免れたらしい。

そういう時代の話を知ると、実は戦後76年経った今もたいして変わってはいないということに気がつく。
テレビはお金の為に国のご機嫌を伺い、政府のプロパガンダの一端を担っているし、著名人の多くが政府を擁護する発言や行動をしている。
こういう大樹に寄り添う人々は、それで安心感を得ているのだろうか?
ひょっとしたら、小さい頃から大きな輪が "正しい選択" だと教育されたことで、何も疑問を感じていないのかもしれない。
人と同じ方向を向いて同じ事をするのを嫌い、国や大人が話す事に疑問を持っていた自分のような人間は、物心ついた時からずっと生きづらい思いをしている。