道徳を考える

「道徳」
ある社会で,人々がそれによって善悪・正邪を判断し,正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく,個々人の内面的原理として働くものをいい,また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。


これは、大辞林からの抜粋。
これを小学生が読んだり聞いたりしても意味はわからないだろう。

現在、「道徳」は小中学校で週1回程度の時間が割り当てられている。
政府では、今後「道徳」を教科として格上げし、それぞれの生徒について評価していくことを決めた。

ん〜〜これはどうなんだろう?
「道徳」の教科化は安倍晋三が最初の首相就任時から目指してきたものだけど、その理由は「いじめ防止に大きな効果が期待できる。」とするもの。
なんともまあ大義が小さい。
それよりも、安倍晋三がやろうとすることは、なんとなく裏がありそうな気がする。
時論公論「道徳を教科にするのはなぜ?」


道徳教育の歴史を調べてみると、戦前は「修身」という教科名で教えられていた。
「修身」は、明治天皇が国民に道徳のあり方を語りかけた「教育勅語」を元にしている。
まずは、「教育勅語」の現代語訳から。
(「チューさんの今昔ばなしと野菜ワールド」の管理人さまより掲載許可をいただきました。)

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 私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。
 あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。そしてもし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。
 このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。
明治二十三年十月三十日
天皇の署名と印

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若干、現代に馴染まない部分もあるけど、非常にわかりやすく納得できる部分が多い。
まして「いじめ防止」などという低レベルの文章ではない。


次に「修身」25の心得(テーマ)はこれ。
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家庭のしつけ、親孝行、家族・家庭、勤労・努力、勉学・研究、創意・工夫、公益・奉仕、進取の気象、博愛・慈善、資質・倹約、責任・職分、友情、信義・誠実、師弟、正直・至誠、克己・節制、謝恩、健康・養生、武士、愛国心、人物・人格、公衆道徳、国旗と国家、国際協調
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悪くない。
しかし、戦後GHQが「教育勅語の無効を明確化する措置」を要求し、「教育勅語」や「修身」を教育の場で教えることが禁じられた。


現在、学校で教えられている「道徳」の教科書の目次を見てみる。

doutoku1.jpg(わたしたちの道徳 小学校1・2年)
doutoku2.jpg(私たちの道徳 中学校)

「道徳」はその国の国民レベルを上げる非常に重要な教育だと思う。
しかし、それは杓子定規に善悪を教えるものではないはずだ。
教科化によって、個々の生徒を評価するなんてものとは違う。


「修身」の教科書には、日本の偉人だけでなく海外の偉人についての話も載っていて、彼らが何を思い考えたかを知り、それを学ぶ機会があった。
最近の子供達(大人も含めて)は、本を読まなくなっている。
テレビ、テレビゲーム、パソコン、スマホなどが情報源の全てになりがちで、本を読んで過去の偉人達の行動や考えを知る機会があまりにも少ない。
僕が影響を受けたのは、「本から」が最も多い。
「道徳教育」は大切。
だけど、「読書」も同じくらい大切だと思う。