だまされる「国民」

昨年10月19日に放送されたNHKスペシャル「カラーでよみがえる東京 〜不死鳥都市の100年〜」の中に印象的な引用がある。

それは、1946年9月に46才の短い生涯を終えた映画監督で脚本家の伊丹万作(いたみまんさく)が書いた「戦争責任者の問題」。

映画監督で"伊丹"という名前を聞いて、伊丹十三(いたみじゅうぞう)を思い出された方も多いと思うが、伊丹十三の父親が伊丹万作である。
親子揃って、非常にするどい観察眼を持ち、目に見える作品を残しているのは素晴らしい。
父と子 ― 伊丹十三が語る父・伊丹万作の人と芸術 ―


「戦争責任者の問題」については、全文7000字のエッセイ。
NHKが抜粋した文章がとてもわかりやすかったので、だいたい同じ辺りの文章を引用してみる。

=====
…(前略)…
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
…(中略)…
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
…(中略)…
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
=====

色褪せないとは、正にこのような文章の事を言うんだと思う。
国は国民をだまし、油断している人達の思考回路を閉じさせてしまう。
国が間違いを犯す場合は、国民全員に責任がある。
僕もそう思う。