庵

今は閉店して無くなってしまった新橋の名店「小さな魚がし」で仕事先の人達と忘年会をしていた。
美味しい海の幸と日本酒でいい気分になったところで、2軒目の店を探しに、新橋の路地裏を徘徊した。
ふと見ると、人通りの無い狭い路地の奥の方で、小さな店が何軒か明かりを灯している場所があった。
その中の間口の狭い1軒、「庵」と書いてある店が気になった。
ガラガラっと引き戸を開けると、すぐ目の前のカウンターの中にいた女将さんと目が合った。
"4人なんですけどいいですか?" と聞くと、2〜3秒間があって、"はい、いいですよ" と返事があった。
7人も入ると一杯になるような小さな店で、先客が3人いた。
女将さんは、とても雰囲気のある人で大正生まれとのこと。
とてもそんな歳には見えない。
女将さんの話では、何十年もやっている店で、俗にいう "いちげんさん" が来るのは珍しいので、びっくりしたらしい。
普段は入店を断るけど、自分と目が合った時になんとなく "どうぞ" と言ってしまった…とのこと。
微笑みの勝利?
先客の3人の方へも、邪魔をしてしまって申し訳ないとひと言ことわって飲み始めた。
そういう小さな店では、なんとなく他のお客さんとも会話ができる。
それぞれが自己紹介をしたところ、とんでもない肩書きの人達だった。
日本ヒマラヤ協会顧問、日本山岳文化学会 副会長、日本山岳協会 参与、日本山岳文化学会 理事、秘境探検家…
そのスーパーな肩書きの人達が一様に "蓉子さん(女将さんの名前)の旦那さんはすごい人だ" と話している。
少しお酒が残っている翌日。
なんだか、昨夜のことが現実にあったことなのか夢の中のことだったのか、曖昧な感じが残る中、女将さんの事をネットで調べてみた。
旦那さんの名前がわかった。
故「安川茂雄」さんだ。
安川さんは、登山家で山岳小説家。
山岳小説と言えば、切れるはずのないナイロンザイルを中心に展開される井上靖さんの「氷壁
実際にあったナイロンザイル切断事故の話を、井上さんが安川さんから聞いたことで、小説「氷壁」が誕生した…というエピソードもある。
自分は、ザイルを使うような本格的な登山はしない。
でも、山岳小説や映画などにはとても魅力的な作品が多い。
最近は、気軽に山へ出かけよう的な盛り上がりがあり、登山用品店も賑わっている。
しかし、山は山。
くれぐれも注意深く行動して、素晴らしい自然に接してほしい。